高齢者の危険運転と免許の自主返納について地方社会から考えてみる。
私は都会から新潟の田舎に移住してきた。
だから都会の便利な交通網も田舎のマイペースになれる車社会もどちらも知っている。
どちらも知っている立場で「高齢者と車」の問題について話していこうと思う。
「100歳でも車を運転する社会」
「新潟で100歳の高齢者が事故を起こした」というニュースがありました。
この手のニュースは多かったけれど100歳の大台はなかなかいなかったよね。
でも少子高齢化が進む現代だと今後100歳以上のドライバーは増えてくると思うんだ。
以前に比べたらね。
いくら「認知機能が低下していて危険!」とか「家族のためにも自主返納を!」と呼びかけても一定数は運転を続けると思うのよ。
「車社会」で痛感した「車無し生活」の辛さ
都会にいる頃だったら「バスも電車もある。少し歩けば何かしら買い物出来る店もある」という状態だった。
だから「自主返納は進めるべきだ」という意見だったかもしれない。
実際、都会育ちのウチの奥さんは「自主返納は絶対にした方がいい!」という意見だ。
でも、車に乗っている多くの人にとっては「車が生活から無くなる」というのは結構痛い。
- 移動の手段が限られる。
- 移動のルートが限られる。
- 移動の時間が限られる。
公共の交通機関って決まったルートで決まった時間に運行するでしょ?
だから「行き先」や「スケジュール」がかなり制約されてしまう。
電車通勤の人でも
「今までの路線は廃止します。回り道になって
本数も1時間に2本になるけど社会のためだから我慢して下さい」
って言われたらしんどいでしょ?
途中の駅にいつも立ち寄る馴染みの店や仕事帰りに通うジムがあったり、買い物で寄るスーパーがあるかもしれない。
車なんてルートも時間も自分次第なので自由度は更に高い。
「高齢者だから」という理由で一度知ってしまった「生活の利便性」を取り上げる事は受け入れてもらえない事だと思うの。
なかなかね。
「社会のあり方」のレベルで見直しが必要
あと田舎に来て改めて考えたんだけど、今の日本って「地域社会が保てない」ところまで来てると思うんだ。
割と都会の方でも「少し歩かないとお店がない」立地はいくらでもある。
この「少し歩く」が高齢者の足で歩ける距離かと言うと疑問に思う。
たぶん厳しい距離の立地も多い。
昔は地域の商店街や街並みの中に「○○商店」とか個人のお店もあったんだろう。
田舎でさえ「昔は商店があった」であろう痕跡が結構ある。
要は生活必需品の調達が出来て暮らして行くための地域社会がコンパクトな範囲に揃ってたんだ、昔は。
それが今は大手のスーパーが「○○商店」の地位を得ている。
店舗数は多くても流石に地域社会全体を網羅しきれない。
採算もあるから当たり前。
だから若者の「少し歩く」が難しい高齢者は車に乗り続ける事になる。
あとは核家族化で高齢者だけの世帯も多いから「買い物に行ってくれる人」がいない世帯が多いのも問題。
おフネさんはあまり買い物でうろついてるシーンないじゃん。
買い物に行ってくれる人がいない。
車無しで買い物に行く先がない。
移動の自由度や利便性を捨てられない。
これだけ条件が揃うと「よし、若者のためにも自主返納するぞ!」という考えがあっても現実的には厳しくなるよね。
解決策があるならば
現状だと現実性がないけど「自由で低コストな交通手段の整備」か「網羅性の高い生活必需品の供給」と「コミュニケーション機会の確保」が必要だと思うよ。
「車を使わせない」ためには「車が必要ない生活」を作らなければならない。
あと人間はコミュニケーションを求める社会性のある生き物だから、生活必需品の供給と一緒にコミュニケーションの機会も確保してやる必要がある。
高齢者の家に定期的に物資を支給。
家主はずっと引きこもり。
っ健全じゃないでしょ?
「対策のコストを負担するのは誰なのか」とか「技術的、採算的にどうするの?」という問題もある。
自動車各社が進めている「自動運転やアシスト機能で事故を防止する」方向が一番現実的だと思う。
となるとまだまだ、事故を起こす可能性が高い高齢者でも車を運転せざるを得ない世の中が続くんだろうね。
というのが、個人的な考えでした。