田舎移住に失敗しまして。~田舎に来たけど都会に帰ります~

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不安対策をしていて感じた「生きる価値」についての話。

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正確には「生きる事を許される価値」と言った方が良いのかもしれない。

 

 

 

不安対策をしていて、ふと思った事なのだけれど。

 


「何故、人は不安になるのだろうか?」と思ったんだよね。

 

 

 

一応、生活保護とかセーフティネットがある現代では「生きるだけ」なら割と何とかなると言われている。

 

 

 

実際、太古の時代。

それこそ一つ判断を誤れば天敵に捕食されるとか、少しの不運で飢えて死ぬという時代もあったわけで。

 

 

 

その時代と比べたら「生きていく」事の難易度は下がっていそうなのに。

 

 

 

「死ぬ事以外は擦り傷」なんて言葉も流行ったけど、多くの人にとっては致命傷になり得てしまう。

 

 

 

 


そんな風に感じたわけさ。

 


たぶん「生きる事を許されるために必要な自分の価値」という考え方が関わると思うんだ。

 

 

 

おそらくは自己肯定感の欠如。

一応、適応障害になる程度には仕事でズタボロになった経験があるんだけどね。

 


当時の私を含めて「自分には生きている事を許されるだけの価値がある」という自信がない人が多いんじゃないかと思うのだよ。

 

 

 

「存在する事を」許される価値があるか、ないか、と言い換えてもいいのかもしれない。

 

 

 

例えば、仕事の話。

とりあえず会社に所属すれば一応、お給料はもらえるよね?

多くの企業では。

 

 

 

でも、仕事がしんどい人って少なからず「自分は仕事が出来ない」と感じていると思うのさ。

 


何に対してかと言えば「自分が貰っている給料」に対して。

 


或いは「自分が雇われている期待や役割」に対して。

 

 

 

給料分、文句なしに働いて成果が出ている自信があるなら不安にもならないし、しんどくもならないと思うんだ。

 

 

 

こんな感じで「今、この場所で自分の存在が許されている」という感覚がないのが不安の一因じゃないかと思うのさ。

 

 

 

他人との比較

他人との比較もメンタルヘルスを損ねる一因としてはよくあげられる。

 

 

 

でも、他人と比較して自分が劣っていたら何故しんどくなるのだろう?

 


私は「自分の中に一つの基準を設けてしまうから」しんどくなるのだと思う。

 


どんな基準かと言えば世の中に存在を認められるために「当然、必要」なのは、このラインという基準。

 


ある意味、生きる事が許される足切り点。

そんな基準を他者との比較で作り出す。

 

 

 

そしてその足切り点に満たない自分を否定していく。

 

 

 

そんなプロセスで他人との比較でメンタルヘルスを損ねるのだと思う。

 


まとめると。

不安とは自分には「この場所に存在しても良いだけの価値がある」という自己効力感の欠如により生じるものだと私は思うのさ。

 

 

 

だから最低限の保証があろうが人は心を病むし、自ら命を絶ってしまう。

 

 

 

しかし、生きる価値なんてのは時と場合と利害関係でいくらでも変わってくるものなんだよね。

 


だから、必要以上に苦しまずに生きていくためには「自分の存在を認める技術」と言うのが必要なのかもしれない。

 


お金があってもメンタル状態で破滅する人もいるのだから、目に見えないし学校でも教えてくれない事だけど。

 


「自分の存在を認める」というのは命に関わる、大切な技術なんだと思う。

 

 

 

私もまだ明確な解決策を持ってはいないけれど、多少なりとも自分と上手く付き合う方法は見つかってきたから、ブログでは発信していこうと思うよ。