「教師いじめ」問題から考える「頼る相手」を考える事の重要性。
問題のあった学校の校長は述べた。
「教員として、人間として許されるものではない」
神戸で「教員による教員のいじめ」が起こった。
本来、子供の模範となり子供が頼るための存在である教員がいじめをしていた。
そして若手教員が頼るべきはずの指導教員が若手教員をいじめていた。
更に教育現場の不備を是正すべきであった校長や教育委員会が機能していなかった。
「頼られるべき存在」がことごとく、本来の役割を果たさなかったのが今回の一件だと思う。
そして「頼るべき相手」を「頼ってはいけない」環境が世の中には溢れているのかもしれないと、私は感じた。
結局は相手も人間、ということ。
例えばの話。
- 子は親を。
- 生徒は先生を。
- 若手は先輩を。
- 年下は年上を
- 部下は上司を。
- 国民は国を。
とか。
儒教的な考えも多いけど「頼るべき相手」とされている相手と言うものが世の中には存在する。
でも当たり前な話で相手も人間。
それぞれの思惑や価値観が存在する。
今回の「教員いじめ」で言えば「自分が面白ければ良かった」との発言も加害教員からはあったようだ。
価値観とか考え方を考察して述べるにも値しない発言なので掘り下げる気すらしないけれど。
少なくとも世の中では一般的に「頼るべき立場」とされていようが個人の利益を優先する人はいくらでもいるのである。
個人の利益とは?
例えば
優越感だったり、金銭だったり。
地位や名誉や安定だったり。
更に行動経済学のプロスペクト理論とかもあるけど「損失を回避する」性質も人間にはある。
自分に損失のリスクがあるならリスクを回避する選択を取りやすい。
揉み消したりして明るみに出さない。
問題にすらならなければリスクはより小さくて済む。
要するに世の中の共通認識で「頼るべき相手」とされている立場の人間を頼ったところで相手によってはまるで意味がないこともあるって事。
打算で動く事も多い。
だから頼る相手を選びながら。
時にはこちらも打算的になって「自分の抱える問題解決が相手の利益になるのか?」まで考える必要があるのかもしれない。
聖人君子はあまりいない。
頼るべき相手を考えずにいると痛い目を見るのかもしれない。
個人から切り離された匿名性の活用。
SNSとかが該当するのだけれど、匿名性が高く広く公開されている場所が「頼るべき相手」として機能してくれないかと思ったりもする。
何故なら個人の立場に繋がりづらいから打算よりも個人の「価値観」により判断と行為がなされるから。
世の中の一般的な「良心」に沿って行動されやすいから。
大義のある方が味方され、無い方が悪になる。
そして数の暴力による制裁。
度が行きすぎる事もあるし諸刃の刃みたいなとこもあるけど、抑止力にはなる。
抑止力になってくれて「目の前の悪しき行動<晒されるリスク」と認識されたらリアルももう少し良くなるんじゃ無いかなーと思ったりした。
まあ、監視社会に繋がるから程度が難しいけど。
あるべき姿を無条件に期待するよりはいくらかマシだと思うのです。